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「医は仁術」展 国立科学博物館 その3

幕末から明治へ

図13

 1820年代 江戸 大阪 京都などに蘭学塾ができ蘭方医が活躍していた。その中で現在まで続くのが「佐藤 泰然  1804~1872 」が江戸 薬研掘町(現在の中央区東日本橋1丁目あたり かつての運河周辺)に1838年設立の「順天堂」なのである。佐藤泰然は長崎でオランダ語と外科を学び、三宅ごんさいと新しい治療を実施した。その後、千葉県佐倉に移転した。 左 順天堂で佐藤泰然により記された手術承諾書

戊辰戦争と近代医学

図12

1868年の戊辰戦争時に銃創による治療を英国人医師が行っていた西洋外科治療が、新政府が西洋医学を奨めた大きな要因であった。奥羽戦争では・白河・平潟・越後の病院に菊の御紋章と病院の文字の旗が掲げられた。このころから「病院」という言葉が公的に使われ始めた。このときの白河病院の責任者 「佐藤 進  1845~1921」は自分の医療の無力さから、後に1968年パスポート第一号をもってドイツ・ベルリン大学医学部に留学、1874年にアジア人初の医学博士号を得て帰国、順天堂医院で医療と教育に従事した。

第四章「近代医学と仁」

図14

西洋近代医学教育の衝撃

1857年、日本の軍医派遣要請に選ばれたオランダ政府派遣の軍医「 ポンペ1829~1908 」は長崎大学医学部の前身の医学校を開設する。1857年11月12日役所最初の講義を行なったこの日を長崎大学医学部の創立記念日としている(長崎大学医学部はポンペと「 松本良順1802~1907」佐藤泰然の次男)により創設された)。その内容はわかりやすい基礎からの内容と日本初の人体解剖実習をおこなった。また、日本で最初の西洋式病院を設立し、コレラ流行時に隔離と治療法を教え大きな衝撃を与えた。

図16

西洋近代医学教育の本格導入

明治維新の後、政府は日本の医学を漢方に代わり西洋医学を採用した。1862年 東京大学医学部の前身 大学東校を設立してドイツの医学教育をモデルに教育を始める。責任者に順天堂創始者 佐藤泰然の養子「 佐藤 尚中 1827~1882(長崎にてポンペに学び認められている)  」となる ドイツ式医学教育はドイツ軍医 B.C.Muller(ミュルレル1824~1893)外科,産科,法医学 と Th.E.Hoffmann(ホフマン1837~1894)により始まった。その教育は厳格なドイツ式教育でたいへん厳しいものだったそうです。その後の教師 E.Baelz(エルウィン・ベルツ)内科 と J.C.Scriba(スクリバ)はともに,その基盤のもとに長く学生たちへの教育を行った。

なぜ、ドイツが日本の医療に深く関わっているのかよくわかりました。

千葉県松戸市 ひかり・歯科クリニック